雲霞草稿

作品の感想メイン

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊を見た2021年の人間の感想

始めに

 2021年ももう終わりかけコロナにも慣れて現在絶賛ひきこもり中のnintiiです。 最近では近くに住んでいる友人も減ってきてしまったのでオンラインで週一回映画鑑賞と感想を語り合う会をしています。 ありがたいことに毎回人もそこそこ集まり、楽しい会になってきました。 毎週鑑賞する作品はamazon primeにあるアニメや実写映画の中から決め、視聴後は考察が白熱して盛り上がっています。 今回はせっかく思いついた感想をその場で終わらせてしまうのももったいないので記録しておこうと思い立ち、キーボードを執った次第です。

 そんなわけで先週の鑑賞会で見た、1995年公開の押井守監督作品GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊についての感想を述べていきたいと思います。 古い作品ですが押井守監督の代表作であり、士郎正宗の原作もSF漫画の筆頭にあげられるほどの名作です。 すでに語りつくされている作品ではあると思いますが、個人の感想ということでご容赦いただければ幸いです。 古い作品ですので既視聴という前提で話を進めていきます。 もしまだ見ていないという場合はamazon primeで見られるのでサクッと見てきてしまうのが早いかと思います。

感想

構成

この作品、結構話の筋が複雑で初見で追うのは難しいと思います。 大まかに四つの話で構成されています。 一見個々の事件はバラバラに起きていますが、最後にそれらがすべて人形遣いの事件に関係していたことがわかります。

一つ目は、アバンで素子が外交官を殺害する事件。 ほとんどの初見視聴者は素子がコートを脱ぐシーンに度肝を抜かれて気づけませんが、国外逃亡しようとしたプログラマーが2501プロジェクトの話をしていて6課の計画にかかわっていることを示唆しています。

二つ目ははグラサンのハッカーと清掃車のあんちゃんの事件。 派手なチェイスアクションが目に優しいですね。 逃げながら派手に人突き飛ばしたり、市場で商品をぶちまけたりお約束もやっています。 この前後で荒巻が説明してくれますが、人形遣いによって二人とも記憶を書き換えられハッキングをさせられていたことがわかります。 この時点ではどっかの国の軍事政権のトップが人形遣いとミスリードされています。

三つめは謎の女性アンドロイドを9課が回収し、奪取される事件。 6課のお偉いさんが取引のために交渉に来ますが、直後に光学迷彩を使った侵入者に襲撃されます。

四つ目は博物館での戦闘と人形遣いにダイブするシーン。 戦車とプログラマーをダウンさせその場で人形遣いにダイブしますが6課によって証拠隠滅のため狙撃されます。 バトーがかばったため辛うじて弾丸は脳を反れ、セーフハウスに連れ帰って新たな義体に素子を入れます。

一つ目の時には人形遣いとの関連は気づいていませんが、二つ目、三つ目の事件で9課は完全に背後に人形遣いの関与を認識し、素子は個人的な目的のために人形遣い接触しようとします。 最後に、四つ目の事件で素子は人形遣いと融合しその後新たな義体を得て終わります。 話の筋は大体こんな感じです。

構成の話はこれくらいにしてあまり深堀りはしません。 基本的に公務員特有の固い言葉で状況説明されるのでちゃんと聞いてないとわけわからなくなります。 しかし、ガジェットの動作を細かいカットで見せたり、アクションの構図がうまいので話の筋は分からなくても何が起きているのかは理解できるようにできています。 あと、ちょいちょい出てくる技術者のおっちゃんや博士が強キャラ感があって好きです。

テーマ

自分はどちらかといえば作品の主題の方が興味があります。 本作は短い時間ながらテーマに沿ってまとまっているため理解しやすいと思います。 一番分かりやすいのはダイビング後のボートでの素子の発言でしょう。

人間が人間である部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かったころの記憶、未来の予感。それだけじゃないわ、私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に私をある限界に制約し続ける。

これはつまり、自己を構成するものは身体や経験だけでなく、自分と関わりのある情報や所属する組織や環境の相互作用であり、また、それらが自己の限界、可能性を決定づけているということです。 素子の義体は9課から支給されたものであるため、素子の顔も声も身体能力も「公安9課の草薙」としての素子です。 もし9課をやめて義体を失ってしまえば、その時素子は素子でいられるのかという疑義を抱いているわけです。 テセウスの船の話に近いですね。 身体が変化したら自己を保つことができるのか? 環境が変わって順応した自分は、過去の自分と同一の存在か? 国家で考えるともっとわかりやすいかもしれません。 戦前の日本と戦後の日本は同一の国家といえるのか? 東ローマ帝国ローマ帝国なのか? 民族って何や? などいくらでもありますが、こういった話には決定的な結論が出ないので今でも問題になるのでしょう。 つまるところ魂、本質的に自己を担う対象が存在するのか否かという問題です。

セリフの間、素子の後ろでは巨大なビル群がズームで映されています。 発言との兼ね合いからこれらのビル群は人を取り巻く環境、他者との関係のメタファーだと考えられます。 この作品の舞台はヴェネツィア九龍城砦を足したような、水上に巨大構造物の林立する雑然とした都市です。 SFでビル群、スラム、雑踏、雨みたいなものを描くのはブレードランナーからの伝統なのでしょうか。 この作品ではこれらの複雑に絡み合う都市と交通網をたまに遠景から映し、象徴的に扱っています。 例えばラストではセーフハウスから出てきた素子の視点で都市がティルトして終了します。 素子はネットは広大だわと、眼前の都市をネットと呼んでいますがこれは全身義体のサイボーグにとっては視界から得た画像もインターネットから得た情報も差異がないのでどちらも自身を取り巻く環境としてネットと呼んでいるのでしょうか。 人形遣いのネットという言葉の使い方も自身の知覚しうる情報という意味で使っていた気がします。 もう一つ、グラサンハッカーが逃げるシーンでも近い演出をしています。 残弾を数えるシーンのあたりから水路に抜けるまでなんだか不安になる画面とBGMが流れます。 水路を抜けて少しほっとしますが、直後に素子にボコられ自身が操られていたことに気づきます。 彼が巨大な建造物に挟まれた汚い路地を脇目も降らず走り抜けるのは自分の環境や周囲を信じ切って自己を喪失する隠喩に見えます。

さて、このあとバトーの返答直後に天の声が聞こえます。

今我ら鏡もて見る如く見るところ朧なり

これは新約聖書の一節のようです。 引用先が聖書というのは我々のような衒学者にはしびれますね。 つまり、自己を確かめるためには鏡越しに朧げなもしくは一面的な自分を見るしかないということです。 内省だけで自分を知ることはできず、自身を浮かび上がらせる何かに接してやっと自分を確認することができる、そしてそれはあくまで自分の一部である、というのは一つテーマとして面白いと思いました。

これは四回ほど視覚的な描写としても表現されています。

一つ目は記憶を書き換えられていた清掃員をガラス越しに見つめるシーン。 ここは感情表現はほとんどされていませんが、素子が清掃員への共感と自己の存在に対する疑念を持っていることがわかります。

二つ目はその直後ダイビングで水面に浮かび上がるシーン。 ダイビング中の素子は何か不安や雑念を払拭する様で、水面に映った自分と一体化し新たに生まれ変わることに期待を抱いている様に見えます。 というかそういってます。 またこの後、なぜダイビングするか問うて、素子が9課をやめたがっていることを察するバトーの情深さが伝わります。

三つ目は人形遣いにダイブしたことで、人形遣い義体に素子が、素子の義体人形遣いが入って会話するシーン。 素子の視界に素子の義体が見えるというちょっとひねった鏡のモチーフになっています。 人形遣いが素子の義体でしゃべるのは虫が体内に入るようなおぞましさがありますね。

四つ目は新しい義体に入った素子を鏡越しに映すシーン。 子供の義体になっているのは人形遣いとの子供ということでしょうか? ここでは先の一節の前文が引用されています。

童の時は語ることも童のごとく、思うことも童のごとく、論ずることも童のごとくなりしが、人となりては童のことを捨てたり。

会話でも直接言及していますが、人形遣いと融合し、9課としての肉体を喪失して新たな義体を得た素子はすでに元の人間ではなく、新たな人間に生まれ変わったということです。

生命としてのプログラムと人間

人形遣いは自身を6課の計画によってネットの海で生まれた自己保存プログラムであるといいました。 6課が外交上有利にふるまうために人形遣いに要人をハッキングさせていたようです。 生物学上人形遣いは生命ではありませんが、情報の中で自己保存のために多様化と複製を繰り返す存在は確かに生命と呼んで差し支えないように思います。 我々は動物の意識ですら完全に信じることができませんが、6課と一緒に来た博士が片思いと呼んだり素子との融合を生物の交配に例えたりしているのは人形遣いの行動に自身の行動を引き起こす意識や感情を投影しているからにほかなりません。 これは人間と人間の間でも同じことです。 共感はあくまで他者の行動から推測して自身の意識を他者に投影する行為です。 そういう意味では素子が人形遣いに共感することで自身を確認したように、人間同士でも共感によって日常的に「鏡もて見る如く」他者の中に自己を見出しているという示唆を得られます。

多脚戦車が博物館の生物の系統樹のような石板を破壊するのはちょっと露骨すぎて笑ってしまいました。 あの系統樹の頂点にあったhominisはラテン語で人を意味します。 生物は単細胞生物からより多様化、複雑化し、環境に順応することで生き残ってきました。 系統樹のうち破壊されたのが根っこの部分だけだったのは枝葉にある現生生物は多様化することで絶滅を免れてきたという描写だと考えられます。

素子とバトー

素子とバトーの認識の相違や関係も考察します。 これは人形遣いを回収した後のエレベーターのシーンです。

バトー 何を考えている。

素子  あの義体私に似てなかった?

バトー 似てねえよ。

素子  顔や骨格だけじゃなくて。

バトー 何の話だ。

素子  私みたいな完全に義体化したサイボーグならだれでも考えるの。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないかって。いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。

バトー お前のチタンの頭蓋骨の中には脳みそもあるしちゃんと人間扱いだってされてるじゃねえか

素子  自分の脳を見た人間なんていやしないわ。所詮は周囲の状況で私らしきものがあると判断してるだけよ。

バトー 自分のゴーストが信じられないのか?

素子  もし電脳それ自体がゴーストを生み出し魂を宿すとしたら、その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?

(間)

バトー 下らねえ。確かめてみるさ、あの義体の中に何があるか、自分のゴーストでな。

この作品でゴーストという言葉は魂とか自己の本質みたいなものという意味で使われています。 このシーンではバトーと素子のゴーストに対する認識に対照が見られます。 バトーはゴーストや自己の存在を無邪気に(というと怒られるかもしれませんが)信じているのに対し、素子は疑念を払拭することができません。 もし、人間に由来しないゴーストが存在するのなら、組織の相互作用によって意識や自己が生まれるのかもしれない。 それならば、今確信している自己というものは機械論的に生み出された意識による錯覚になってしまう、ということです。

別にバトーが単純だというわけではありません。 そもそも自身の肉体に自己を見出すのは自然な発想ですし、その反面グノーシス主義など自身の肉体を従属物だととらえる思想もあります。 素子が全身義体であることがその差異を生んでいるとも読めますが、これはあくまでも素子に対してゴーストを信じる人間が必要だとバトーが理解しているからということもあるでしょう。 トグサや荒巻の前では見せない思考や不安をバトーには吐露する素子もそうですが、光学迷彩装備の素子に上着をかけたり、ボート上で着替え中の素子から目をそらしたりするバトーが素子を大事に思っているのはよくわかります。 この二人は恋愛関係ではないし相棒というほどでもありませんが、一人の人間としてお互いを必要としているというのがこの些細な描写から伝わってきます。 ラストでバトーのセーフハウスに匿う提案を拒否した後、再開の合言葉を決めるシーンはストレートではありませんが好意が見えてよいですね。

この作品では登場人物の表情が乏しく、表情や発言で意思を表現するようなことをしていません。 過度な感情表現せず抑えた演出は自己への疑念というテーマにもあっています。 感情移入を制限する代わりにカットの間を長くとることで異化効果のようなものを生み出し、感情を想像させるという演出使っています。 わかりやすいキャラ付のハリウッドや感情豊かな美少女ばかりのアニメでしか感情移入できない我々の脳みそにもたまにはこういう上品なものを突っ込んどいたほうがつり合いが取れるかもしれません。

まとめ

テーマをまとめると自己とは自身の肉体や経験だけでなく、自身を取り巻く環境、他者との関係など様々なものの相互作用で成り立っており、ゴーストはそれ自身の存在を証明することはできないということになります。 タイトルGHOST IN THE SHELLはGHOST IN THE MACHINEという論文から引用しているようです。 自分は本作品を、シェルは自身を構成するものと外部との相互作用であり、そこに自身のゴーストが宿るのかを問う作品だと解釈しました。 これをアイデンティティの喪失ととらえると似ているようで少しずれてしまうと思います。 あくまでもこの作品の主題は自己の本質とは何かを問うことにあります。 他者に埋没することへの不安ではなく、そもそも自己の存在に対する疑念なのです。 そしてその答えは明確にされていません。 ラストで新しい義体に入った素子が見つめるのはやはり鏡越しです。

終わりに

 初めてこの作品を見たのは五、六年前だと記憶していますが、当時はやたらと早口で展開される政治劇に惑わされて、作品のテーマがよくわかっていませんでした。 そういうわけで当時の自分の評価としてはぱっとしない微妙な映画でした。 ですが、今回はすんなり話の筋とテーマが入ってきました。 二回目だからなのか、ちょっとは映画の見方がわかってきたのか。

 これからも押井作品を含めいろいろ見る予定なのでまた感想を書き留めていきたいと思います。 もし興味があれば他の記事も見ていただけるとありがたいです。